Bonne Grace

 臨床、すなわちベッドサイドにおける医師の役割は、医学をよいマナーで患者に伝えること、と理解している。医師は一方で医学研究に携わり明日の医学の開拓に寄与しているが、私は「よいマナーで伝える」という医師の役割は、これに劣らず、時代を超えて普遍的に重要と考えている。医学は、技術的に正確かつ最新であるのは元よりとして、患者に正しく伝えられてはじめて生きる。すなわち、如何に優れた医療も、伝え方次第で良くも悪くもなると、反省を込めて心得ている。

 よいマナーは、社会生活にも重要で、最近は乗り物の予約の際などにも感じるが、とくに若い人たちの応対が格段に改善されて来て、無理に敬語を使おうとして時代劇口調になったりする人がないではないが、全体として社会が心地よくなって来たと感じている。マックの店頭などの応対が型通りと嫌う人もおられるが、門前の小僧習わぬ経を読むの例えの通り、型に嵌められているうちに自然と丁寧な応対が身に付くのは、むしろ、よいことだと思う。優しく接して、相手が喜ぶ姿をみて、ひとはさらに優しくなれる。わが国はむかし金持ちニッポンと揶揄されたが、今やわが国民の品位は向上して、文字通りGentleman(穏やかな人)が住む一流の国家になって来たと思う。

 私は今年、実写版の映画シンデレラ(ディズニー)に魅了されて、十数回見てしまった。そして、見る度に感動して幸せな気持ちになっている。主人公エラが母の遺言、勇気と優しさ(have courage and be kind)を胸に、強く生きて、継母や義姉の酷薄な扱いを妙(たえ)に受けとめて、周囲への優しさを忘れない。黄金の馬車、トカゲの従者、ガチョウの御者、眩いブルーのドレス、宮殿のダンス、ガラスの靴、そして美しくて優しいシンデレラ。ストーリーのすべてが愛らしく、慎み深く、そして美しい。宮廷での舞踏会のダンスシーンなどは映画史に残る傑作ではないかと思う。原作はサンドゥリオンCendrionという名のシャルル・ペロー作の短編で、長靴を穿いた猫や眠れる森の美女などと一緒に、コントContesというタイトルの一冊の本に収められている。そして、それぞれのお話の末尾には、Moralite(教訓)と書かれたページがあってこれが如何にも昔の本らしいのだが、シンデレラの章ではそのMoraliteの第一に、女性らしさや男性らしさなど、それぞれの性に固有の冒し難い美しさが賞賛されてある。確かに、どんな女性にも女性固有の嫋やかさがあるし、どんな男性にも固有の強さや優しさがあって、それぞれ超え難くしかも美しい。シンデレラの場合はさらに、降り掛かる不幸に反旗を掲げるのでなく、これを妙に受け止めて挫けず、しかも周りに優しい。これが何とも美しい。Moraliteの第二には、bonne graceが取り上げられている。フランス語でbonは良い、女性名詞の前ではeが付けられて発音の関係上nが重ねられてbonneとなって女性名詞graceにかかる。grace(グラース)は英語のgraceに近いと思われるが、辞書を繙くと英語の意味するところ以上に、優雅さ、気品、慎み深さ、慈愛、さらには、許す、恩寵という訳語まであって、これらすべてを含んだ概念がgraceであると思われる。映画では、さんざん意地悪された継母に対して王妃になるシンデレラが、「あなたを許します」と最後に言う。原作では、シンデレラは随分と意地悪された姉たちを恨まず、それぞれ貴族と結婚させている。子供のころ教えられた「恨まざるを以って恨みの根を滅ぼせ」の世界であると思って感動している。

 そのシンデレラは、王子だけでなく動物たちにも慕われ、助けられる。そんなことが現実にあり得るのだろうか?この問いに対する答えは、今の私にはない。答えられるほど心が澄んでいないと思うからだ。しかし、自身の一生を通じて是非とも知ってみたい答えでもある。 

 因みに、私は猫が大好きで、猫も私が大好きだ。私の中学生の頃はなぜか犬派が幅をきかせていて猫好きというと何とも変人であるという風に顔をしかめられ、私はずっと隠れ猫派に甘んじていたが、最近は猫派が多くなって大変気分がよい。でも、猫が私を助けてくれたか、覚束ない。

 さて、お釈迦様の入滅に際して、弟子はもとより象やウサギまでが嘆き悲しんだと釈迦涅槃図には示されてあり、悲しい場面ではあるが、なんとも温かい雰囲気であると感じている。またわが国では、道鏡を次期天皇に押すべきかの孝謙天皇の問いに対する答えを九州の宇佐神宮に仰いだ折、和気清麻呂が使者に立ち、否というご神託を持ち帰った。その故に、彼は直ちに罷免され、故郷岡山の自身の和気の所領をすべて失った。その後名誉が恢復され厚遇されたというが、その間の心痛は如何ばかりであったか、偲ばれる。ひとはしばしば、ただ、正しく生きるために、甚だしい苦難に直面せねばならない。だから多くの人々は、体制に依って妥協して自身の保全を計り、また懸命に権力を求めるのであろう。その宇佐に下向する和気清麻呂を、道鏡の刺客からイノシシが守ったとされ、岡山の和気神社では猪がご祭神になっている。私も家内と共に、藤の美しい初夏に、詣でたことがある。和気清麻呂は現在、救国の士と見做されているようで、江戸城のお堀端には、皇居に向いて威儀を正して立つ和気清麻呂像がある。

 また昔、インドのある村で、お釈迦様がお出でになるというので、村の長者が沿道に万灯を照らしてお釈迦様を出迎えた。その際、一人の貧しい老婆が一灯を寄進した。さて、いざお釈迦様がお出でになる段になったら、大風が吹いて沿道の万灯が消えてしまった。しかし、貧者の一灯だけは消えることなくさらに高く燃えて梵天まで照らしたという。曰く、真実だから消えなかったと。

 高校生の頃「人問わば海を山とも答うべし 己が問わば何と答えん」と教えられたが、自らに正直であるのは本当に難しい。ワシントンのような人はまれである。およそ人の世は嘘に嘘を重ねても、多くの場合強者が同時に正義をも勝ち得て、歴史は勝者の歴史であるのが常である。それでは、真実は無意味なのであろうか?私は昔、恩師宮地廓慧和上(西本願寺勧学、京都女子大名誉教授)から、「仏の教えは鳩が翼に水を付けて山火事を消すようなもの」と聞かされたことがある。お経にそう書いてあるとのことで、確か法華経義疏(聖徳太子著、花山信勝校訂、岩波文庫)で私も読んだように思う。確かにその通り。仏の教えに実効性はない、と人生を幾許か歩んでみて、そう思う。しかし同時に、実効性なくとも、あるいは実効性がないからこそ、その思いすなわち真実が永遠の時空を貫いて末通るのかも知れない、とも思う。そう思ってみると、「愛語よく回天の力あり」(道元禅師、懐奘著、正法眼蔵随聞記、岩波文庫)とあるし、よく見ると、世の偉大な事績は、近くは故マンデラ大統領まで、すべて真実に端を発している。真実は人を動かすのだ。

 ところが、私の心には真実がない。真実を装っているだけだから、いざという時に役立たないのではないか、と思ってしまう。だから、動物も助けてくれず、また奇跡も起きないと。もし私の心が、「濁りなき心の水に住む月は 波も砕けて光とぞなる」(道元禅師)ほどに徹底して澄み、末通って真実であれば、シンデレラのような奇跡が実際私にも起こり得るのではないかと、そのようにも思うのである。モーゼが海を割ったとか、私は決して奇跡をそのまま信じる者ではないが、これもあり得ないことではないのかも知れない。自らが見たり、理解したりできない事柄を全て、ばかばかしいと一笑に付す前に、自らを、すなわち自身の生き方が真実であるか否かを、静かにふりかえってみるべきではなかろうか。

 医師を天職と心得え、よい医師になりたいと願う私には、bonne graceは医師であるための重要な資質であるように思われる。graceを慎み深さと訳してよいのかフランス人でない私にはよく分からないが、シンデレラの人となり、からはそういった印象を受ける。科学や法律は正邪を分ける世界である。しかし、bonne graceは正邪を超えて、しかもこれを包む、許し許される恩寵の世界、ではないか。またそうでなければ、生きること即ちパワーのこの世において、壮健でパワーがあるうちはよいがお釈迦様の四苦(生、老、病、死)のとおり、その力を失った病者が心身を委ね真に癒される世界があり得ないのではないかと、そう感じている。

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